玉造金毘羅宮・謎の石造物群についての考察

来待石製出雲式八重垣型狛犬1

記念銘のある山陰最古の狛犬

一昨年2月新聞紙上で「山陰最古の狛犬見つかる」の報が掲載された。その後3月に同新聞紙上文芸欄に「記念銘のある山陰最古の狛犬」と題して筆者の論考が紹介された。人々がどこかで目にしていて意識の片隅にあるが、常時忘れ去られている狛犬を始めとする石造物の数々、そこには当時の人々の祈りと、そしてそれを作り上げた石工の魂が生き続けているのである。その後広範囲な調査によって点でしか見えなかった事象が、線となり新たな事実が判明している。その一部を紹介する。

また前回本紙を読まれた方々が、是非玉造の金毘羅宮へ行きたいとの問い合わせが殺到した。急遽島根大学白潟サロン、玉作資料館主催の見学会が開催され、沢山の市民の方々が参加され、その見事な石造物の造形に驚愕されたことは筆者の記憶にも新しい。来待石製の狛犬は座型(居獅子)、構え型(勇み獅子)ともに、出雲式と呼ばれるように国内で固有の形式を持つ狛犬である。他国でこの形式を有する狛犬がおれば、それは来待石製かそれを模倣したものである。重ねて言うと出雲で生まれ、来待石で作られた狛犬を出雲式という。

現存する山陰最古(山陰の全ての参道石造狛犬対象)の記念銘を有する狛犬は、玉造(たまづくり)金毘羅宮(こんぴらぐう)に存在する天明2年(1782)石工武(ぶ)右(う)ヱ門(ゑもん)作出雲式(いずもしき)八重(やえ)垣型(がきかた)狛犬である。(本年、鳥取県立博物館と私、廣江氏との合同調査で河原石を加工して作られた享保六の小型狛犬が発見されたが調査中につき除外する。)ついで大歳神社(安来市広瀬町)寛政1(1789)、加茂神社(雲南市加茂町)寛政2、柿本神社(益田市高津町)寛政2、出雲金刀比羅宮(東出雲町上意東)寛政3、加賀神社(松江市島根町)寛政6、揖夜神社(東出雲町揖屋町)寛政7、西八幡宮(安来市伯太町)寛政8、三刀屋天満宮(雲南市三刀屋町)寛政9と続く。柿本神社、加賀神社の浪速型(なにわがた)(大坂を中心とする狛犬の形式)を除いて他はすべて出雲式狛犬である。このように江戸期北前船などで他国より県内に来ている狛犬は前述の他にも多数存在している。主に大田市以西石見が中心となる。

逆に当地から他国へ寄進されている狛犬も多数見受けられる。北は北海道から南は九州、そして瀬戸内圏域へと、広く出雲式狛犬が活躍している。その中の讃岐(さぬき)金(こ)刀比(とひ)羅宮(らぐう)(香川県琴平町)出雲式座型狛犬は天明1年(1781)松江石工門(もん)兵衛(べえ)作の狛犬であり、これが出雲式狛犬としては記念銘を有する最古の狛犬となる。この門兵衛作狛犬は近在では出雲金刀比羅宮(寛政2)、康国寺供養塔上狛犬(寛政3)、大山大神山神社奥宮(寛政8)など廣江正幸氏や筆者によって確認されている。松江石工門兵衛は出雲式狛犬座型の初期型(丸尾)や現在に通ずる構え型狛犬などを作成しており、出雲式狛犬の先駆者といっても過言ではない。

出雲式狛犬の中の八重垣型と称される特殊な狛犬が文字通り佐草町八重垣神社に鎮する。古色(こしょく)蒼然(そうぜん)としてほっそりとした体躯、明らかに他の勇ましい狛犬とは異なっている。研究者の間では全国の狛犬の中で最も古いものではないかとも云われている。ただ、記念銘などが一切消失しており、いつ頃の狛犬か分からなかった。玉造金毘羅宮で発見された石工武右ヱ門作狛犬がこの八重垣型である。この発見により国内でも注目されていた八重垣神社狛犬の寄進年代等の目途がついた。和多見町賣布神社引退(現役を退いた)狛犬も同類型である。

この金毘羅宮では他にも幕末の名工幸八作カラス天狗像(天保〜)、不動明王像(万延2年)、石工權(ごん)市(いち)作出雲式狛犬(文政6年)、灯籠(天明2年)、石工頭林兵衛作来待石製本殿(寛政〜文化年間)、その中に鎮座する役(えんの)行者(ぎょうじゃ)像、小型狛犬4体、金比羅権現像と思われる石片(墨書・松江石工相良門(さがらもん)兵衛(べえ))、御鏡の枠(墨書・奉献 玉造金毘羅大權現寶前 天明六丙午年七月吉祥日 願主白潟灘町 加谷屋兵右衛門)などを確認している。これらから判断すると、御鏡の墨書名天明6(1786)白潟灘町の商人が来待石製役行者像、来待石製金比羅権現像、小型狛犬などを奉献していると考えられる。小型狛犬の中には讃岐金刀比羅宮狛犬との類似点のある狛犬がいる。そして金比羅権現像石片には相良門(さがらもん)兵衛(べえ)とあるので、あの門兵衛のフルネームは相良門兵衛であることが判明した。

この玉造金毘羅宮には、出雲式狛犬の先駆者ともいえる門兵衛と山陰最古の記念銘を有する八重垣型狛犬作者武右ヱ門両者の石造物があること。天明年間松平治郷(不昧)の時代、石工としてはこの両者が抜きん出た技量を持っていたのであろう。そして、武右ヱ門は出雲式八重垣型狛犬の作風を確立し、門兵衛は現在にも通ずる座型、構え型狛犬を確立していったのである。相良門兵衛については出雲市国富町(くんどみちょう)康(こう)国寺(こくじ)の供養塔上狛犬の調査においてもこの名が確認された。寛政第三辛亥□ 石工 松江白潟相良門兵衛 と彫られていた。これにより松江白潟の住人であることも判明した。

玉造金毘羅宮御鏡の墨書にある願主は白潟灘町であった。点と点が結びついて線となった。そして面となっていく。当時の世相、そして商人の力、匠の技を有した二人の石工、松江白潟灘町の様子、湯之助役(長谷川家)の活躍した玉造温泉など。今まで見えなかった事象が、膨大なデータの蓄積、整理によって一つの面となって現れてきたのである。

調査にあたり、廣江正幸氏、玉作湯神社宮司遠藤融氏、清厳寺御住職、多久田友秀氏、福間祐子氏、その他神職氏子各位には大変御世話になりました。記して感謝の意を表します。

(文責・来待ストーン館長 永井 泰)

来待石製出雲式八重垣型狛犬2

来待石製カラス天狗像1

来待石製カラス天狗像2

来待石製不動明王像

来待石製本殿、役行者像など

来待石製出雲式座型狛犬

来待石製金毘羅権現像の石片

御鏡の枠

本殿脇の狛犬達

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